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第三条 私室について

Author: 春野ケイ
last update publish date: 2026-11-01 05:47:08

第七話 停電

午後三時を過ぎたころから、窓の外が急に暗くなった。

法務部の島は窓際にある。ブラインドの隙間から見える空が、灰色から、墨を溶かしたような色に変わっていく。遠くで、低く何かが転がるような音がした。

私はキーボードの上で、指を止めた。

まだ遠い。まだ大丈夫。

部長に頭を下げて、定時ちょうどに会社を出た。浜松町の駅に着くころには、大粒の雨が落ちはじめていた。電車の窓に、雨が斜めの線を引いていく。豪徳寺の改札を出たときには、傘を差していても膝から下がずぶ濡れだった。

家に着いたのは、七時前だった。

玄関の引き戸を開けると、家の中は真っ暗で、しんとしていた。

当たり前だ。久世は接待で遅くなると言っていた。わかっていたのに、手探りで明かりのスイッチを探しながら、少しだけ心細くなった。

考えてみれば、この家に夜一人でいるのは初めてだった。いつも私が帰るころには、居間の明かりがついていた。ついているのが、いつのまにか当たり前になっていた。

*

お風呂に入って、簡単に夕飯を済ませるあいだも、雷は少しずつ近づいてきた。

縁側のガラス戸が、風に押されてかたかたと鳴る。いつもなら、夜になると久世が雨戸を閉めている。戸袋から一枚ずつ引き出して、端から順に滑らせていく。毎晩見ているはずなのに、私はそのやり方を知らなかった。見ていたのは、雨戸ではなかったのかもしれない。

ガラスの向こうが、白く光った。

思わず目を閉じた。一、二、三。数えているあいだに、空が裂けるような音がした。

三秒。一キロくらい。

小学生のころに覚えた計算を、今でも勝手にしてしまう。

静岡の実家は、両親とも帰りが遅かった。三年生の夏、一人で留守番をしていたときに、裏の電柱に雷が落ちた。窓の外が真っ白になって、家じゅうの明かりが消えて、母が帰ってくるまでの二時間、私は押し入れの中で耳をふさいでいた。

もう大人だ。二十八にもなって、雷くらいで。

そう思うのに、光るたびに肩が勝手にすくんだ。

二階の自分の部屋には戻れなかった。あの部屋は、南側に大きな窓がある。この家に来た日、いちばん嬉しかったあの窓が、今夜は空をいちばん大きく映してしまう。

私は居間の明かりをつけたまま、座卓の前で膝を抱えた。テレビをつけて、音を少し大きくした。お笑い番組の笑い声が、雷の合間に響いた。

九時を少し過ぎたときだった。

窓の外が、これまでとは違う白さで光った。

数える間もなかった。家ごと揺れるような音がして、テレビの画面が、ぷつりと消えた。

明かりも、消えた。

*

真っ暗だった。

自分の手も見えない。冷蔵庫の低い唸りが止まって、柱時計の音だけが、やけに大きく聞こえた。

手探りでスマホをつかんで、画面をつけた。青白い光の中に、座卓の角が浮かび上がる。

電池は、十八パーセントだった。

縁側のほうを照らすと、ガラス戸の向こうも暗かった。いつもなら見えるはずの、隣の家の窓明かりがない。道の向こうの街灯も消えている。この家だけではないらしい。それがわかって、少しだけほっとして、それからもっと心細くなった。直せるものではない、ということだから。

また、光った。

スマホを胸に押しつけて、目を閉じた。音が来る。来た。

居間にいられなかった。縁側のガラス戸が、光をそのまま部屋に流しこんでくる。

私は壁伝いに廊下へ出た。廊下には窓がない。階段の下まで這うようにして行って、いちばん下の段に腰を下ろした。背中に、段の角が当たった。

ここなら、光は見えない。音だけなら、まだ耐えられる。

スマホの画面を見た。トーク画面を開く。いちばん上に、昨夜の『先に寝てて』があった。

停電した、と打った。

送信ボタンの上で、指が止まった。

接待の最中だ。取引先の前で、同居人から「停電した」なんて連絡が来たら、困るに決まっている。そもそも、そんなことを伝えてどうするのだろう。帰ってきてほしい、とでも言うのか。

第七条、という文字が、頭の隅をよぎった。

私は打った文字を消した。

*

どのくらい、そうしていたかわからない。

雷は、近づいたり遠ざかったりを繰り返していた。雨の音が、屋根の瓦を叩き続けている。暗闇に目が慣れても、見えるのは廊下の奥の、さらに濃い暗がりだけだった。

廊下の先には、久世の部屋がある。

第三条。甲乙は、互いの私室に立ち入らない。

入るつもりなんてない。ただ、その襖の向こうに誰もいないことが、今夜はやけに広く感じられた。

手の中で、スマホが震えた。

『そっち、停電してる? ニュースで見た』

電池は、九パーセントになっていた。

大丈夫、と打った。今度は送った。

『大丈夫。電池が少ないから、しばらくスマホ見ないね』

既読はすぐについた。返事は来なかった。

それでいい、と思った。それでいいのに、真っ暗な画面を、しばらく握ったままでいた。

また光った。目を閉じる。一、二。

近い。

膝に額を押しつけて、耳をふさいだ。押し入れの中の、あの夏の匂いがした気がした。

音がやんで、雨の音だけが戻ってきた。

その雨の音に混じって、外から、何かが聞こえた。

水たまりを蹴る足音。門の閂が外れる音。飛び石を踏む、急いだ靴の音。

玄関の引き戸が、がらりと開いた。

細い光が、廊下の床を走ってきた。スマホのライトだった。光は廊下の壁を照らし、居間の入り口を照らし、それから、階段の下でうずくまっている私の足もとで止まった。

「……真柴?」

息が切れた声だった。

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